諸塚再発見

古園集落(松の平)
Furuzono

諸塚再発見 シリーズ第12回 

 古園集落は、1軒で、OIさん、奥さんのMさん、息子のHさんとお嫁さんのSさん、孫の中学生K君(次男)の5人の世帯です。長男のY君が延岡の九州保健福祉大と、長女のMさんが日南学園に行っています。

 塚原発電所と塚原ダム(通称古園ダム)は、昭和10年に現在の九電の前身である九州送電株式会社によって起工され、13年に竣工、発電を開始しました。当時高さ、体積などでは日本最大級のダムで、国際的にも最新の技術が投入された、土木業界では有名なダムだそうです。材料のセメントや鉄筋、食料に至るまで、延岡から索道(ロープウェイ)で運搬していたそうです。平成16年1月にはダムが国の登録文化財に指定されています。

 このダムと発電所の建設当時は、村外から大量の人口が流入し、昭和12年には8930人と、戦前戦後を通じて最高の人口を記録しています。

 もともとO家は、国道327号線より下の、ダムによって水没した場所にあり、ダム建設のために今の場所へ移転したそうです。Hさんが記憶している限りで、最も多いときは12軒ほどの世帯があり、なかには商店もあったそうです。

古園集落 塚原ダム(古園ダム)

 Hさんは、日向市で大工の修行をして19歳で帰ってきてから、恵後の崎の甲斐工務店に勤められ、現在にいたっているとのことです。

 狭い道路沿いにあった古園の世帯は、ご存じのとおり国道327号線の改良工事に伴い立ち退きを余儀なくされ、現在は工区に入らなかったOさん1軒になっています。4年ほど前に他の世帯すべてが引っ越した直後はやはり寂しさがあったそうです。特に、人はいなくなったのに家がそのまま残っているのは、一層寂しい感じがしたという言葉に実感がこもります。「今では慣れてしまった」とはおっしゃいますが、中学生のK君には近くに遊び相手もなく少し寂しそうです。

 Sさんも、今はお若いですが、子どもたちが出て行った後もずっと住み続けるのは1世帯では不安があるとおっしゃいます。生活を便利にするはずの道路が、別な側面では村内で生活していきにくい場所をつくっている。現代社会の抱える矛盾の一つかもしれません。Hさんも、(今となっては遅いが)住民が移動しなくてよい範囲での道路改良が出来なかったのか?という疑問は持たれているようです。
 近代のダム工事という、大型事業の前後には賑わいも経験した古園集落と住民が、やはり近代化の波の中で大きく変化していくことを余儀なくされるというのは現代社会の持つ不安定さを象徴する現象にも思われます。

OIさん一家
◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。