諸塚再発見

方川集落(松の平)
Hohgoh

諸塚再発見 シリーズ第10回 

 国道327号線を恵後の崎から松の平集落へ上り、松の平公民館100m程手前の分かれ道を左へ3q程進むと、松野地区、さらに進むと方川に着きます。役場から9.5q、時間にして20分程です。

 方川地区は1軒、HTさん、奥さんのKさんの世帯です。

方川集落
 方川の字は本来は「宝川」だったそうですが、いつの間にか今の字になったのだそうです。近くにある神社も「宝川神社」と表記されていたそうです。

 H家の歴史は古く、源平合戦の頃から続いているということですから、900年近い歴史があるようです。戦国時代に武将がH家の前で休んでいるところを、敵に矢で射られ戦死したのを葬った墓が今のH家の向かいの杉山にあるそうです。墓は二つあり、ひとつは亡くなった武将が、もう一つは道具箱のようなものが埋められているそうです。HTさんが子どものころまでは、武将が使っていたと思われるカブトの飾りが墓の側に置いてあったそうですが、祖父が墓に埋めてしまったそうです。墓を掘れば珍しいものが出てくるかもしれませんが、彷徨ってもいけないのでそれはしないということです。

 家のそばにはサワラの古木があり、樹齢7〜8百年ほどではないかということで、まさに方川の歴史をみてきた古木と言えるようです。それはそれは巨大な枝振りを誇っていたそうですが、山師が近くの山から木材を搬出する時に、枝が邪魔ということで大きな枝を切ってしまったそうです。「今なら切らせんちゃが。」と、HTさんも残念なようです。

 H家はHTさんの祖父の代までは旅館業を営んでいたそうです。今の耳川渓谷沿いの国道327号線が通る前には、集落のすぐ下を県道が通っていて、初代の宮崎県知事も通ったことがあるそうです。諸塚と椎葉の中間的な地点にもなるので、様々な人達が宿として利用していたのでしょう。商売柄でしょうか、古い巻物や刀など、今残っていれば相当価値のあるものが多く残されていたそうですが、火事があり焼失してしまったそうです。

 HTさんは現在自営で、シイタケや山の仕事をされており、Kさんは「せせらぎの里」に勤務でしたが、5月いっぱいで定年により退職されるということです。お疲れさまでした。これからは畑仕事や、HTさんと山の仕事などしようということです。

 「木の値段がもう少し高ければね。」と、現状では山だけで子供を育て上げるのはなかなか難しいといいます。シイタケも、昔のほうがよく出来ていたんじゃないかといわれます。昔はそんなに菌を植えなくても良くできていたし、何回も発生していということです。一つには、気候が変化したことが影響しているのではないかということです。

 お茶も、年々収穫時期が早くなっていますが、「大晦日に茶摘みするごとなるよ。」とKさんが冗談を言いました。確かに、10年後20年後は本当に予想の付かないことが起こるかもしれません。

 「(村が)合併したら、うち辺りは手が届かんなりゃせんかな。」ということを武年さんが言われましたが、要するに血管の先になる部分に、血液が通わなくなってくるんじゃないかという漠然とした不安があるようです。市町村合併の論議の中では、住民の生活はどうなるのかという部分が不透明な感はあるかもしれません。合併したとしても、諸塚方式の自治組織の繋がりやサービスの水準をよそに広げることが出来ればいいのでしょうが。歴史ある地区の生活が何も変わらずに続けていける、という安定を支えていきたいと思わずにはいられません。

HTさん夫婦 サワラの古木
文化財
 宝川神社には十二枚のお鏡が御神体として祀られており、様々な年代のものがあるようですが、古いものはいつの年代か不明のものもあるということです。
◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。