諸塚再発見

山瀬集落(川内)
Yamase

諸塚再発見 シリーズ第8回 

 国道503号線から左折して川内林道へ、2q程進むとカーブに「猿渡2q・山瀬(右斜め矢印)」の標識が現れます。現在は災害による工事中で通れませんが、さらに200m程進むと道上の集落へと続く道が現れます。役場から約10q。車で20分ほど。ちょうど山桜や山ツツジの花が沿道に見られる3月の後半です。

 山瀬地区は3世帯が並んだ集落です。

山瀬集落全景
 いちばん東側の端、写真の右端がTTさんのお宅です。現在奥さんのHiさん、中学3年の娘のHaさん、母親のSさんの4人です。Haさんのお姉さん2人は高校などで村外にいます。TTさんが7代目になるようですが、その昔はTでなく「外山」という姓だったらしく墓標などでそれが確認できるそうですが、なぜ、ある時期からTになったのか理由ははっきり分からないようです。役場の記入ミスにしては違いすぎるし・・・

 Sさんの父親になるSaさんが、「うちは侍屋敷じゃった。」と言っていたそうです。ご先祖は侍だったのでしょうか。Saさんは様々な事業をする方だったそうで、養魚場や茶工場、製材所、建築業のような事や、山師の親方など次々とチャレンジしたそうです。養魚場で育てた鮎などは運動会の時売ってまわったり、茶工場のためのお茶をあちこちの地区から買ってまわったりして、その手伝いをSさんもしたそうです。非常に商売好きで熱心な方だったようです。ただしなかなか定着はしなかったそうですが・・。

 戦前は満州に行っており、あちらでも商売をされていたそうですが、終戦直前に帰国し、その後も満州に物を輸送して商売をしていたそうです。本当に商売熱心だったようです。

 川内の奥の砂防ダムが建設された30年代には飯場が多くあったということです。今の川内公民館が建っている場所はかつては七ツ山小学校川内分校だった場所で、30名以上の生徒が通っていたそうです、Hiさんも3年生まで通ったそうですが、その後廃校となりました。土木工事や山師が多く入ってきた30年代ごろは労働者の寝食のための飯場が建ち、猿渡辺りがにぎわっていた時期があったようです。山瀬地区に定住している世帯は昔から3軒のようですが、村外から仕事に来た山師の飯場がやはり3,4軒あったそうです。

 TTさんは現在建設業の仕事に従事していますが、かつては椎茸と杉が生活の柱で、山林は70ヘクタールほどあるそうです。しかし、かなり厳しい地形が多く植林できない様な場所も多い様です。毎日仕事が遅くまであるようで大変そうですが、「大きな不満もない。」と言われます。しかし、趣味の写真撮影は、最近「現場写真だけじゃ。」。これから写真にもいい季節ですし、TTさんが気に入った風景を写真に収める時間が増えるよう願っています。

TTさん一家
 いちばん西側、写真で左端になるのがKMさんのお宅。現在はお1人で住んでいますが、4人のお子さんがそれぞれ村外で生活しており、息子さんが村内に勤めがあり時々寄っていくそうです。

 KMさんは、猿渡の奥、今は空き家だけになった中滝集落から、昭和31年に嫁いでこられたそうです。取材日はお彼岸で、娘のKさんがお孫さんを連れて来ていました。前日まで沖縄に旅行していたそうで。もう熱いぐらいじゃなかったですか?と伺ったら「まだ涼しかった。」そうです。でも気持ちは暖まったのではないでしょうか。

KMさん一家
 真ん中になるのが YJさんの世帯で、奥さんのMさん、小学4年生のさEん、同じく2年生のT君、母親のTさんの5人家族。

 YJさんで9代目、先々代(YJさんの祖父Mさん)の弟のTさんが昭和52年に書き記した「Y家家系図」があり、見せていただきました。10人兄弟9人兄弟と続いており昔はどこも兄弟が多かったようです。YJさんは18歳で帰ってこられてからはずっと勤めに出られています。

 Y家には「憩いの想い出」と題した本があります。先述のMさんの弟Kさんが、伝え聞いたことや生活に関することを書き残し、Kさんの下の弟で家系図を書いたTさんと、その弟のMさんが編集するというように、兄弟3人の共同作業により残されたものです。

 内容は山瀬での厳しい生活の様子や当時の風俗など様々なことが書き綴られており、大変興味深く拝見しました。今となっては貴重な資料の一つではないかと思います。一部を紹介させていただくと、戦前までの主食は、焼き畑で作ったアワやヒエ、麦等の雑穀であり、「カロリーとかビタミンとかは関係ない、とにかく空腹を満たすことが第1で、唐芋でも何でも腹一杯詰めたときが満足なのである。」とあります。雑穀の混ざらない純米飯を食べるのは「盆3日正月5日、学校の運動会、氏神様の祭と年10日ぐらい、御大師様の祭日と氏神様の祭日には小豆入りの米のにぎりめしが出た。」とあります。今の人たちが想像も出来ないぐらい、米のご飯がおいしく感じたのではないでしょうか。

 焼き畑の方法は、「雑木林を切り開いて(ヤボキリ)枯れた頃に焼く。作付けの順序としては、1年目ソバ、2年目はヒエかアワ、3年目からはその他いろいろ。山仕事には弁当がいるが、ソバは弁当にならないので、弁当用の雑穀に困りそうだったら、1年目からアワを作付けして、2年目以降はソバなしでその他いろいろ」となったようです。

 風俗について、明治の頃の男の頭髪等はよそ行きの時はちょんまげを結い、お上からの呼び出しであれば脇差しをさしたこと、盆正月が来ると「馬見原に行ってこにゃならん。」と言って遊びや買い物に行っていたこと、そして西南の役で西郷軍が敗走してきたときの話から、太陰暦の「土の入り」にまつわる昔話など、面白い話が数多く記録されています。

YJさん一家
 何か今不便に感じていることを、それぞれのお宅でお聞きしました。

 交通の便では、バスはもちろん川内方面へは入ってこないので便がないことを言われていました。SさんやTさんが病院等へ行く際は、朝は勤めに出る車で一緒に行けるが、帰りは、巡回バスのようなものがあれば良いのだがということでした。

 他には、村の活性化のためには就業の場の確保、という意見でした。しかし、それ以外の普段の生活では不便を感じないし、これと言った不満はないというのが大方の感想のようです。道路の改良が進んで中心地との距離感が縮み、車社会の良い面がここでお見られるように感じました。また、お隣さんもあり、子ども達もいて適度な社会性のようなものも保たれているのかもしれません。

 最後に「憩いの想い出」の最後を締めくくっている文章を紹介させていただきます。

〜本家には茶ヒキ皿がある。明治年間までは手煎緑茶を皿で粉にして飲んでいたのだろう。お茶漬けの時〜お茶だけ飲むときも勿論お茶の葉共食すことになる。大正年間後は使用しなくなったので、お茶をたてて飲んだ後のお茶がらは捨ててしまう。「古いことでも良いことは良い」とよく言われるがお茶の場合も昔の考え方のほうが良いように思える。
 茶ひき皿を使用しなくなったつまり茶がらを食しなくなったということは一つには貧乏臭いように思うようになったということもあるだろうし、もう一つには文明の進歩と共に忙しくなったような感じで、面倒くさいと思うようになったのでもあろう。こう考えてみると昔はのんびりしていてよかったなあという感じが浮かんでくる。〜(著者にて文章の一部を略しました)

◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。