諸塚再発見

大椎集落(八重の平)
OOSI I

諸塚再発見 シリーズ第6回

1.大椎地区へ
役場から国道503号線を飯干峠へ向けて上ります。宮の元集落を過ぎて約1q、小さな大椎橋のたもとが三叉路になり「大椎」と書かれたバス停と、ごみ収集箱を挟んで「1q・・・・」「どこへ」かが汚れてしまった道路標識があります。その地点まで役場からは約12q。

 標識に従い右折し、山へ分け入る道を進むと、道が少し複雑に交差する場所の道上に大椎地区2軒のうちの1軒、OMさんの家が現れます。それをさらに川沿いを上ると、もう1軒のIMさんの家が右手に現れます。取材日は雪が降っており、近年では珍しく役場周辺も大粒の雪が降っていた午後、大椎も一面の銀世界の中、IMさんに出迎えられました。

大椎集落入口
2.生活をする人々
 IMさんは奥さんのFさんとお二人、子供さんは4人おられ、それぞれ村外で生活されています。もう1軒のOMさんはIM家から分家したのだそうです。かなり古くから今の場所に住んでいたらしいのですが、残念ながら記録が残っておらず、IMさんが何代目かなどは定かでないようです。

 戦前の昭和10年代から戦後までは大椎の山には川南や木城、時には四国などから山師がきて木を切り出していたそうで、IMさんの家の納屋などが、長い間宿泊所になっていたそうです。

 IMさん自身は椎茸栽培と林業に従事してきており、20年代前半に種ゴマが登場して椎茸栽培に革命が起こったことは強く印象に残っているようです。出てすぐに種ゴマによる栽培を始めたそうですが、周りの人が始めたのは、IMさんが始めた1年程後だったそうで、その後はあっと言う間に普及したそうです。

 換金作物としては椎茸がほとんど唯一のものだったということで、いろいろと苦心して貯めたお金で20年代前半に電線を引き(この当時は皆自費での工事)、今の国道から大椎への車道が30年代前半に開通し、同じころ諸塚村で一番早い時期に耕運機を購入するなど、お話を聞いていると、戦後間もなく大椎地区も近代化、機械化が進んでいった様子が、それも比較的他の地区より若干早く進んだ様子が想像されます。

IMさん夫婦とご自宅
 もう1軒のOMさんの家族は、奥さんのSさん、子供のM君、Aちゃん、Eちゃん、OMさんの父親のSさん、母親のTさんの7人家族、3世代のご家庭です。OMさんは役場の建設課に勤めています。

 O家は記録に残っているだけで、OMさんで7代目になるそうです。記録として残っているのは宝暦7年(1757年)というのが一番古いそうです。

 Sさんはずっと椎茸栽培と林業に従事してきたそうです。かつての換金作物としては、椎茸の他にお茶、こんにゃくがあり、特にこんにゃくは熊本で「八重の平こんにゃく」として評判になっていたそうです。Sさんによれば、「作る時お湯に入れた際の膨らみ方が違った」ということです。都農あたりからも、わざわざ買いに来ていたそうです。 

OMさん一家とご自宅

 

3.終わりに
 小川がすぐ側を流れていることからも水が豊富であることは想像できますし、日当たりも比較的良いということで、2軒とも、昔から作物の不出来等で食べ物に困ることは無かったようで、現在に至っても野菜を買って食べることはほとんど無く、自給自足に近い生活が出来ているということです。いなかとはいえすごいことではないでしょうか。

 また、毎年当番を変えて、神々を祀る「お祭りを」大椎だけで行っているという事です。一時期は途絶えたそうですが、それも戦時中だけのことらしく、少ない軒数では省略されてしまいそうなお祭りがごくごく自然に受け継がれている様子は尊いもののように思います。

 田畑の作物という贈り物に恵まれてきた土地で、それこそ自然な、目に見えないものへの感謝の気持ちが、当たり前のように祭を続けさせるのか。そのような自然が豊かな人間を育むのか。なぜかは分からない穏やかな空気の流れを感じる雪の大椎でした。

◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。