諸塚再発見

浅薮集落(川の口)
ASAYABU

諸塚再発見 シリーズ第5回

1.浅薮地区へ
 諸塚から柳原川沿いを通る県道50号線を立岩方向へ、5分ほど走ると古原で分かれ道に会います。まっすぐ行くと立岩方面、右へは、川の口・浅薮へ3q、という標識が立っています。柳原川の支流坂井川沿い、古原林道の緩やかな坂を上っていくと、白い壁のおしゃれな?浅薮集会所(営農研修施設)が右手に現れます。さらに川沿いを数百メートル上ると浅薮の集落につきます。役場からは15分弱といったところ、現在3世帯が生活しています。

 先月に引き続きの川の口ですが、別件で浅薮を訪れたおり、「新年号にはここしかない」との直感(山勘)に導かれての取材地決定でした。

浅薮集落
2.生活をする人々
 1軒はNTさんの世帯で、奥さんのSoさん、父親のMさん、母親のSaさんの4人が生活しています。N家はNTさんで6代目になるそうです。椎茸関係でテレビ出演等されているのをご覧になられた方も多いと思いますが、ご家族一丸で椎茸栽培をされており、県の椎茸品評会等でも上位入賞の常連になられています。個人から電話等での椎茸の注文がかなりあるらしく、取材時にも注文の電話がかかっていました。発送の際のパッケージのラベルをNTさんが自作されており、「霧六峰」ブランドのイメージで、浅薮が霧に包まれた写真に原木椎茸の写真を重ねてデザインしたもので、すばらしい出来です。
 子供さんが3人おられ、息子のKさんがUターンする予定で、楽しみなところです。

 浅薮地区の戦後の歴史についてもいろいろとお話を伺うことが出来ました。
 まだ今の県道50号線がトロッコ道だったころに、古原から浅薮まで車が通れる道を作ろうと浅薮地区の住民は早くから行動を起こし、周辺地区からは時期尚早といわれながら、機械もなく、手堀りで何年もかかり道を掘ったそうです。その後、初めのうちは道に丸太(木馬)を敷き、その上を滑らせて材木を古原まで運びトロッコに乗せて運搬していたそうです。この木馬の作業が非常に危険で、事故により亡くなる方もいたそうです。何年か後に、オート三輪を分解してトロッコで古原まで運んで組み立て、それにより木材運搬を始めたそうで、
 これにより作業効率が大幅に上がったそうです。また、作業道についても、MさんとKSさん、MYさんの3人が中心となって開設に尽力され、村内では最も早く昭和30年代前半には川の口の作業道はほぼ開通したそうです。中には「掘った道の分は木が植えられないからそれだけの価値があるのか。」という人もいたそうですが、「道を掘った分の捨て土がたまる道下は、柔らかく良い土であるため通常の倍植林が出来るからそれで補える。」ということを、実証により納得してもらったそうです。

 また、日之影町で自家発電していると聞いては見に行き、自動車の発電機を水車で回して発電し、1家に1個電球を付たり、村内で2番目に早く耕運機を導入したりと、昔から先進的な取り組みをする地区であったことが分かります。 

NTさん一家
 2軒目はAGさんの世帯、奥さんのTさんとお二人です。A家はAGさんで6代目になるそうです。
 父親が村会議員をされており忙しかったため、早くから家業をまかされ、椎茸栽培と林業を行ってきたそうです。造林に熱心に取り組んでこられ、「60歳までに、必要な椎茸の原木林以外は全て人工林にする」という夢を持ち、雨の日も雪の日も休まず仕事をして、夢を実現したそうです。「じゃから、母ちゃんには苦労かけとる。」と、ぽつりと言われます。現在では、材価が下がり、若いころ思い描いた将来との差はあったかもしれませんが、「やってきたことには本当に誇りを持っている。」というお言葉に、思わず「師匠!」と呼びたくなりました。
 「山の仕事はほんとに面白いし、気持ちが大きくなる。」という言葉にはうらやましい気さえします。

 Tさんは諸塚短歌会のメンバーで、毎月四季折々の歌を村報紙上でご披露頂いている歌人でもあります。
 子供さんが3人おられ、娘さんとお孫さんが非常に山が好きだそうで、「もしかしたら帰ってきて山のこともするかもしれない。」とおっしゃいます。きっとAGさんとTさんが山を愛する姿を見て、山が好きにならずにはいられないのではないでしょうか。

AGさん一家
 3軒目はNAさんの世帯、奥さんのTさん、母親Kさんの3人、寒い時期、Kさんは延岡の子供さんの所に行っているようです。お寺にあった記録が消失したため正確にはNAさんで何代目になるか分からないようですが、浅薮で最も古くからある家のようです。浅薮では一番高い位置に家が建っていますが、NTさんのお宅のいわゆるもとや元屋になるそうで、分家はどんどん下に家を建てていくものだそうです。

 NAさんは林業労務班の仕事に出ており、朝早くに出られ、帰りが夜の遅い時間になることも多いようです。Tさんは水本建設で働いています。
 娘さんが3人おられ、内2人の方が村内に帰ってきておりすばらしい定着率?をほこります。

NAさん一家

 

3.終わりに
 一番多い時で7世帯あった浅薮地区ですが、昔、地区の始まりに現在と同じ3世帯だったのが分家などで増え、また現在の世帯数に落ち着いたという見方もあるようです。ですからMさんも、「今後は3軒で続いていくだろう。」とおっしゃいます。

 浅薮地区が早くから造林に取り組めたのは一つには水が豊富で米が良く出来て、食べる事に困らなかった分、力を注ぐことが出来た。ということをMさんがおっしゃいます。その土地がもたらす恩恵が、林業の振興の後押しをしたと言えるのかもしれません。

 かつて黒木勝利村長時代「林木育種研究会」であちこちを視察して杉などの品種を研究して、どんなものが今求められるのかを考えたそうですが、現在は、どんな椎茸を消費者が欲しているかということを常に考えておられるそうです。NTさんが「自分の作ったものを売ってみるとよく分かる。」とおっしゃいましたが、精魂込めて作ったものを直接届けることで様々な反応がありそれにより分かってくる事が多くあるようです。NTさんもそれにより安心できる良いものをお客さんに届けたいという強い気持ちを持っておられるようです。
Mさんが、「調べればきっと諸塚に適した作物が何かあるはずだ、ただしやろうと思ったら本気で取り組まんとだめだ。」とおっしゃいましたが、諸塚の将来を見据えられた言葉だと感じました。

 山と共に生活し、自然の恩恵を感じ、おおらかな気持ちで生活する浅薮地区の人々に接し、今回も諸塚の良さを再発見することができました。

◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。