伊友・中村集落(立岩) |
諸塚再発見 第3回
1.伊友・中村地区へ 途中、桂集落方面との分かれ道を伊友林道へと進み、さらに与狩内林道との分かれ道を伊友林道方向に曲がれば、次の分かれ道は右に行けば中村集落、左に行けば伊友集落に突き当たります。両地区とも上長川から約8km、役場からは約20qです。 2.生活をする人々 取材日は集落から200m程下の道沿いで、お2人で杉の伐採作業中で、現場で話を聞くことが出来ました。息子さんが2人、娘さんが1人おられ、10年ほど前からは月の3分の1ほどは延岡の息子さんの所で過ごしておられるようです。 お年を聞くと、なんと83歳。しかしチェンソーを扱う姿はまだまだお若く、楽しみは山で仕事をすることとおっしゃっていました。それと少しの晩酌も、のようです。 S家はSFさんで7代目になるそうです。家に残る資料に、「安永五年(1776年)に、住人十人」という記述があり、当時の中村地区の住人数が分かりますが、軒数はなく、SFさんが確認できるだけでは4軒だったそうです。 昔は焼き畑を主にやっており、換金作物としてはお茶、それと高級和紙の原料のかじ楫皮(こうぞの皮)だったそうです。しいたけは、SFさんの祖父の代から栽培していたそうですが、SFさんの代では主に作業班を編成しての仕事をやっていたそうです。 もう1軒はYMさん。林業を営んでおられ、かつては作業班の仕事にも出られていたようですが、現在は自営のみだそうです。Y家は、与狩内地区のY家から分家してきており、YMさんで3代目になるそうです。誰もが認める、日本一「霧島」(飲むほう)に愛された人で、いくら飲んでも二日酔いさせてくれないそうです。また誰からも親しまれる人柄で人望も厚いようです。 青年時代は名マラソンランナーとして名をはせたYMさんは、今は仕事に飲み方に持久力を発揮し後輩の指導にご尽力されています(筆者もご指導賜りました)。
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伊友はYMiさん1軒、奥さんのIさん、農協に勤める、息子のMさんの3人です。2人の娘さんのひとり、やちよYさんが諸塚病院で、もう一人のSさんが東京におられ、共に看護師さんです。数年前まで伊友は2軒でした。過去には3軒あったそうです。
Y家はYMiさんが7代目になり、その昔はやはり、焼き畑をしていたようです。田や畑も作っていたそうですが、伊友周辺は水が冷たく、比較的日照時間が短いため米等のできは余り良いとはいえず、自給用も不足することがあり、買い求めねばならない場合もあったそうです。換金作物としては、SFさんの話と同様に、焼き畑に作った茶(釜炒り茶)や、楫皮、きくらげ、そして囲炉裏の灰を売っていたそうです。灰は麻を洗うために使っていたそうで、日之影の方で売れていたようです。 YMiさんは、祖父の代から始めた椎茸栽培、それと林業に長年従事していましたが、近年体調を崩され、山仕事はあまり出来なくなったとのことです。椎茸の話ですが、昔の炭であぶるムロでは、今の強制送風の乾燥機のような能力は無かったため、いわゆる「水なば」を採ることはまずなかったそうです。 車道が通ったのは昭和37年、電気が通ったのは昭和22年だそうですが、電気を通すための費用は個人や、集落の負担だったそうで、当時約12万円の費用が掛かったそうです。今でこそ当たり前のように電気やその他便利な道具に囲まれて生活していますが、先輩方がそれを得るために一つ一つ苦労しておられたんだなと思います。
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3.終わりに 取材の際には、皆さん本当に快く、また丁寧に迎えていただき恐縮しました。どこに行っても感じることですが、最初は「取材」と言うと「えっ」という反応があるのですが、すぐに快く応じていただけるのは、サービス精神も少しはあるのかもしれませんが、協力しようとか、助けてやらないと、という優しさがあるのではないかと思うのです。だから、こっちが勝手に押しかけていても、「お疲れさま」とか、こちらが押しかけて申し訳ないのにあちらから「何もなくて申し訳ない」といったことを言われます。そんなときは、気遣っていただいてありがたい、申し訳ないという気持ちと、来てよかったという気持ちになります。 集落の人の優しさは素朴でありがら熱いものです。諸塚から無くしてはならない、伝えるべきものの最有力候補ではないでしょうか。 <自慢の文化財>
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