諸塚再発見

小原集落(飯干)
Kobaru

諸塚再発見 第1回

1.小原地区へ
 飯干公民館から国道503号を2qほど車で登ると、右側に、分かれ道と、小原まで3qの標識が現れます。途中の見晴らしの良い場所を横目に道を登っていくと、やがて世帯2軒の小原地区に着きます。

 小原は元々は今の場所ではなく谷を隔てて斜め向かいの小山の、なだらかな丘のような場所にあったようですが、水利の関係から、水の豊富な今の場所に移ってきたらしいということです。軒数はその当時から2軒だったという事で、元々の集落があった場所は末小原と呼んでいるそうです。

2.生活をする人々
 仲良く並んだ2軒のうち1軒は、FIさんのお宅で、FIさんのお母さんのMさんとの2人世帯です。息子さん2人が村外に就職しています。船井家は勇さんの代で9代目になるそうです。林業を営んでおり、作業班の仕事などにも出ているそうです。

 もう1世帯は、FYさんのお宅。奥さんのNさん、息子のKさんと奥さんのNさん、孫娘で小学校1年生のMちゃんの5人世帯で、Mちゃんは剣道の練習に行くというところでした。

 FY家は確認できるだけでKさんの代が6代目ということです。家族形態での作業班で林業を営んでおり、幸喜さんの奥さんのNさんも立派な戦力として山仕事に活躍しておられるようです。

 2世帯とも林業に従事するご家庭で、Kさんも村内外で、勤めをすることなくいままで林業に従事してきているということで、今となっては貴重とも言える、純粋の林業後継者かもしれません。

3.未来、夢
 Kさんに、これからの夢を訪ねると、「今のような生活が続けていければ」ということでした。ただ、「自分たちが植林した木が少しでも良い値段で売れていくような状況になってくれればいいんだが」と語っていました。FIさんも同じ内容のことを言われていました。Kさんのお母さんのNさんは「住み慣れた今のところでずっと暮らしていきたい」と語り、「若い人がどんどん帰って来られるような諸塚であってほしい」と言っておられました。
 都会の激しい変化にさらされる生活に嫌気がさし、田舎に移り住む人が全国的にも増えている昨今、今の生活が続けられることを望むという幸喜さんの言葉には素朴ながら重みを感じました。

4.終わりに
 なぜ2軒だけが中心集落から離れて小原地区を作ったのか等、今となっては解けない不思議もありますが、そこに住む人々は自然の恵みを受けると共に、あらゆる文化的恩恵を受け幸せに生活をされている様子が見て取れます。

 都市部での生活の利点と過疎山村のそれとを比較することはよくあることですが、遠い近い、多い少ないの差がどれほど重要かと考える必要があるな気がします。そのようなことより、小原地区の宝のように愛されているだろう美紀ちゃんが、帰って来たくなるような小原地区、良いふるさと諸塚を創り、守っていけるよう頑張っている家族の姿を見た気がして、ほのぼのとした感じを受けました。

 

◆現在、諸塚村だけでなく全国の町村が、過疎と不況、合併問題などにより難しい状況に立たされています。そのような中、小規模の集落が点在する本村では、生まれた土地で頑張って、助け合い生活を築いている家族、集落が多く存在します。そういった集落の歴史や生活をかいまみることで、都会では得ることの出来ない自然の中での生活の喜びや、尊い営みの一端が見えてくるかもしれません。そのような視点でこのコーナーを続けてみたいと思います。

<ちょっと文化財>
 飯干の本村で話を聞いていた「七人塚」について、少し紹介します。
小原の藤岡家が飯干の母家から金のかんす(注)をあずかっていたところ、それ目当ての盗賊が入り七人の家族が斬り殺され、その七人の墓が「七人塚」として藤岡家の玄関横に祀られています。

(注)水などを入れて沸かす道具のこと。