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「森の理想郷を語る」
「森の理想郷を語る」
     甲斐重勝 (元諸塚村長、前耳川広域森林組合長)
 ※長文になりますが、あえて全文掲載します
1.はじめに

根本的に自然と人間の関係を考え直す時期にきているのではないか―
 御紹介を頂きました甲斐重勝です。
 この素晴らしい大会にお招き頂き、この様な所からお話を申し上げる機会を与えられ大変光栄に存じますと同時に心から恐縮をいたしております。
 私、人間が定住するには大変厳しい環境の宮崎県の諸塚村というところに生を受けまして以来65年間そこで生活をさせて頂いてまいりました。従ってこれまたお恥ずかしいことを申し上げますが、私は学問も学歴もない人間であります。また学者でも評論家でもございません。
 実は岩手県林業技術センターの方が、わざわざ私の村においで頂きまして、この文化講演会で講演をというお話がございまして、お断り申しあげても申し訳ないという気持ちでお引き受けしたところでございます。
 従って、私が今日お話を申し上げますのは、非常に限られた範囲での経験によるものでありまして、話の内容も学問的な裏付けのないお話で、せっかくの時間を無駄にするのではないかと心苦しく考えております。
 ご案内のとおり環境問題等で大変森林の問題が取り上げられるようになって参りました。言うならば世界的に進んでいる価値観の変化の中で私どもは、今改めて根本的に自然と人間の関係を考え直す時期に来ているのはないかと思います。

1.諸塚村のこと
(1)村の概要
 私の村と申しますのは、宮崎県の北部に位置し、熊本県の阿蘇山のある阿蘇地方に近い村でありますが、千メートル級の九州山脈の山々に囲まれた典型的な純山村でございます。
 若干村の様子を申し上げますと、村の面積は、187平方キロで森林の占める割合は95%、平地はわずか1%にも満たない状況でして、まとまった平地は皆無、極端な表現をしますと、全く平地の無い村だと申し上げても言い過ぎではない厳しい環境の村でございます。地形は急峻で、人が住むにはちょっと無理な地域なのであります。
 私も全国の山村をあまり歩いている訳ではないのですが、私の知り得る山村の中では地形的にも最も厳しい山村ではなかと思います。
 平成7年度の国勢調査で人口2,600人、世帯数800世帯という数字なっておりますが、一番人口が多かった時は、昭和35年の国勢調査で8,000人をちょっと超した時がございます。その時はダム工事の最盛期でしたので、その関係で一時的に住み着いた人が約1,000人程と言われてますが、それを差し引いても7,000人から2,600人まで下がっておりまして、宮崎県の44市町村の中では最も人口減少の厳しい村でございます。非常に厳しい状況の中であるため、村民が頭数だけいても生活できない訳であります。
 特に、現在800世帯が標高150〜800メートル程度の標高差の中に、88の単位集落に分散居住を余儀なくされているような村なのです。従って、一軒屋だけの世帯もありますし、3世帯、5世帯や多くて10世帯というような小さな集落が、わずかな平地を求めて村土一円に分散居住しています。
 私も、一番奥まった標高600メートルをちょっと超した集落に生まれ育っておりまして、現在わずか3世帯しか生活しておりません。
 余り紹介しない方がいいかもしれませんが、私の集落に電気が灯りましたのは、昭和26年です。車の通れるような車道が集落まで完成したのは昭和40年でございます。従って、私の少年時代から青年期にかけましては、松明かりやランプの中で生活をし、育てられたものでございます。村長をしまして、朝4時頃自宅を発ち、宮崎空港1便に乗って上京し、日帰りでしばしば陳情活動をいたしまして、最終便で帰り自宅に帰り着くのは夜中でございます。
 考えてみますと、私の申し上げた時代は、けもの道のような山道を片道3時間かけて、役場に行きました。往復6時間ですから1日がかりです。そして、どんな用事で役場所在地に出ましても、帰りには日用品や食料品を一杯背負って帰らなければならなかったのであります。その頃の方が、街で酒を一杯飲んでも家に帰るのに苦痛は感じませんでしたが、最近は車になっても、ちょっと遅くなると辛く感じるようになりました。
 時たま考えますと本当に世の中が便利になったのか、忙しくなったのか、しばしば、自問自答しております。

(2)村の特徴 −均等な森林所有と高い路網密度−
 村の特徴の一つは森林所有関係で、国有林は2%で、あとの民有林の85%は極めて均等に村内の村民の方々が所有していて、一林家平均すると約25ヘクタール、10〜30ヘクタール位の山を持っている方が大半を占めていることです。
 それから、もう1つの特徴をあげますと、山村の関係者が非常に関心を持たれて来村される村内の路網密度です。路網密度は公道、林道、作業道を含めて、ヘクタール当たり約53メートル強になっております。そして、数年前から県単独事業で助成してもらい林内作業道いわゆる低規格作業道という幅員2メートルの道路がその先についていることから、部分的に条件のいいところを見るとヘクタール当たり100メートル近い路もう密度が完成しています。そして、どの道路も行止りのない道路開設を進めているので、循環密度路網と表現されていますが、道に迷ったなら下に行けば県道が、上に行けば大規模・広域基幹林道に必ず通ずるという路網になっています。
 これが非常に急峻な地形の中で、諸塚村を平地に変えるような役割を果たしている訳です。
 しばしば道路開設が環境保全の視点から、あたかも自然破壊の元区のようにご批判を頂く場合がありますが、山村において人並みの生活をしようとすれば、どうしても道路整備をしなければならないのです。そして、地毛的な問題があるかもしれませんが、少なくとも道路を開設しても愛情を持って、その道路を維持管理するならば、森林災害は最小限度にくい止められるのではないかと経験上感じています。例えば、作業道を開設した所は、翌年掘削で土を流した箇所全部に植林をして再生を図る努力をしています。
 問題は、開発をし開設した道路を大切に守る住民がいなくなったところにあるのではないかと思います。 

(3)戦後真剣に進めた拡大造林
問題は造林地を適正に管理できない山村からの人の流出−
 また、造林の問題でも、私ども九州地方で人工造林を盛んに進めて参り、針葉樹のうえすぎだと批判される方もありますが、結果的に見ればそうかもしれませんが、拡大造林によって作られた人工林は、そこに住んで生活をしている私どもにとっては、山を伐って木を植えた訳ではないのです。
 戦後、ご承知のとおり大変森林が荒廃していました。あの大戦の混乱から立ち上がって、一番最初に手掛けたことは、荒廃した森林・国土の緑化であったと思います。そしてその際、生長が早くて経済性の高い樹種を植え過ぎたということは、多少私どもの欲もあっただろうと思います。
 しかしそれは、今の豊かな社会から見て、結果論として評価されるのであり、その当時の時代背景から考えると、私どもにとって真剣に木を植え、村を守ってきたという気持ちであります。
 それよりも、私が今問題にしたいのは、1千万ヘクタールに及ぶ人工林のいわゆる拡大造林の失敗を責めるよりも、その人工林を適正に管理さえできない程に山村から人が居なくなったことです。
2.山村の哀しい予盾の図式
 私は申し上げたように、その器でない者が縁あって諸塚村の村長を、4期16年間勤めさせてもらったその中で、色々な方々から勉強させていただく機会が沢山ありました。
 今、宮崎県の松形知事が国土保全奨励制度というのを全国に向けて提唱して頂いております。ご承知の方もあると思いますが、松形知事は林野庁長官をご経験なさった方で、山村の実態には非常にご理解を頂いている知事であります。
 そういう事も手伝って、この国土保全奨励制度と宮崎県が進めておりますフォレストピア構想(森林理想郷づくり)の関係で、東京にあります「森とむらの会」という元国鉄総裁の高木文雄先生が会長をなさっている会に、色々ご指導を頂いています。
 その会に関係されている方に、色々工夫して木を街づくりに使ってユニークな発想で地域づくりを進めている静岡県の掛川市長の榛村純一先生という方がおります。
 この方が静岡県森林組合連合会の専務理事をなさっている時に、山村の実態を表現するのに、「哀しい矛盾の図式」を発表されたことがあります。私も何回か講演を聞いております。「哀しい矛盾の図式」とは、「紅葉の美しい所は既して貧しい。水のきれいな所は住み難い所である。緑の豊かな所は不便な所である」、「野鳥さえずる所は寂しいところ」、「空気の澄み渡っている所はそこに住んでいる人の頭は澄んでいないということ。」これはちょっときついが、山村に住んでいる方々を馬鹿にしたことでなく、お金が全て、学歴が全て、便利さが全てと割り切って街に出て行った人々に対し、割り切れない人が山村に残っていて、空気は澄み渡っていても、頭はぐずぐず、色々考えるから澄まないという哀しみを言っているのだそうです。
 しかし、電気も道路も無かった私の村の過去を振り返って見ますと、私のように3世帯の集落でも、不満を言ったら罰が当たる位素晴らしくなっています。
 私は、この榛村先生の「哀しい矛盾の図式」を逆手に取って考えたらどうかと思います。「紅葉の美しい所は概して貧しい」と言いますが紅葉のない所は四季がない所で、そういう所では人間の感性はもう磨かれないと思います。水の無い所、水が沢山あっても手を加えないと飲めない所は本当に豊かな住み処なのだろうか。
 この様に全部言葉を逆にして考えると、今の環境問題と非常に繋がりのある言葉ではないかと思います。
3.県下一の貧乏村
 私の村は、昭和20年の敗戦直後に宮崎県の地元の新聞に「宮崎県一の貧乏村 諸塚村」という有難くないタイトルで、山村生活の厳しい悲惨な状況を紹介された村であります。
 それは私が先程申し上げたように、村の奥まった集落はほとんど電気も道路もなく交通の利便性に乏しく、産業としては見るべきものが無い村であり、恐らく新聞に紹介された以上に貧しい村であったと思います。当時のことを思い浮かべてみると大変な時代であったと思うのであります。
 実は私の父親が昭和18年に海軍で戦死し、兄弟がいなかったため当然ながらそのまま細々とした農林業の後継者の道を歩まなければなりませんでした。
 少年時代にお袋に連れられて木を植えに行くのが、いやでいやでたまりませんでした。私どもの地域では、夜が明けてから作業に出るということはなく、暗いうちから苗木を背負い、今の飽食時代から考えると、どうしてもあんなに御飯を持って行かないと生活できないのだろうと思う位、弁当だけでも大変な重量でした。鍬・苗木を背負い、そして谷川でヨギリという竹の筒で水を貯める物も持ち、1〜2時間も山道を上り現場について、最初の仕事は火を炊き、お湯を沸かすことでした。湯が沸いたら茶の葉を入れ、先ず山の神にその日の作業の安全を祈り、それから仕事に掛ける日課でした。そして、背負っている苗木を全部植えなければ帰れないので、帰りも薄暗い山道を自宅に急いだという記憶があります。
4.林業立村を目指す村づくり   −「モザイク模様の森づくり」−
 私の村は人工林率が86%で、針葉樹7割、唯一の産業である椎茸の原木のクヌギが約3割で、ほぼ7対3の割合で適地適木に植栽されています。これは、時の村長が椎茸が唯一の換金作物であったことから、自分の山を植えるときは「クヌギを30%は植えなさい」と、村の産業の振興方針として強力に進めた経緯があります。
 そういうことで、ほぼ7対3で針葉樹と広葉樹が入り混じっており、昭和60年、「朝日森林文化賞」を受賞した時に、朝日新聞社の方が山を「モザイク模様の林相」と表現して頂いてから、「モザイク模様の森づくり」として評価されています。この事は、専門の先生からも災害に強い森づくりだと言われています。
 こういう村ですから、私の村は理屈抜きで林業に頼る以外にない村であります。他の産業はなかなか立地しづらく、従って村民誰ともなく、「林業立村」を合い言葉にして、戦後50年あるいはそれ以前から必死になって努力してきました。
 今日の状況は、私がくどくど申し上げるまでもないと思いますが、50年間諸塚村民が血のにじむような努力をして築き上げた林業立村の村が、極端な表現をすると今日の経済社会の大変動により、朝目を覚まして見たら、土台から元も子もなくなっているような変化の中に、埋没しかかっていると言えるのであります。
 しかし、私はこの村づくりは間違っていたとは決して思っていません。むしろこれから先、こうした点を国民の多くの方々にご理解頂いて、あの衣食住にも事欠く時代に黙々と山村で生きてきた人の生きざまを、歴史的な背景と共に思い起こして頂きながら国の将来や人類の将来を考えて頂く必要があると思います。大変生意気な事を申し上げて恐縮ですが、そういうことを感じています。
5.村づくりを支える自治公民館活動
 私は村の県下一の貧乏村と言われながら、今、全国の山村の中で一定の注目をされる村にまで成功を収めたのは、「諸塚方式」と言われる公民館活動を基礎においた人づくり、村づくりが大きな支えになったと思っています。
 例えば先程申し上げたヘクタール当たり53メートルにも及ぶ道路開設にしても、林業構造改善事業等あらゆる制度をご配慮頂きながら、その制度を巧みに活用しながら開設していったのです。林野庁からはなかなか承認されなかったが、単価の高い開設し難い箇所を制度事業で実施し、その後、補助制度で購入した道路開設用の重機械で道を結ぶ、あるいは延長していくやり方で努力してまいりました。地形が急峻なるが故に、道路を開設した効果がいかに大きいかということは、村民が等しく肌で感じています。幸い林地の殆どが村民の所有林であるが故に、道路を開設するにも用地費に一銭も、あるいは立木補償も全くしたことはありません。16の自治公民館に別れているうち、中心部の2つの集落がサラリーマンが集中する集落で、後の14の集落は大体似たり寄ったりの状況です。
 例えば1年間に1,000メートルの作業道を掘ることになった場合、その16の自治公民館から地域住民の総会で議論して決定した各路線が順位を付けて役場に申請されてきます。その上がってきた申請の路線を県の駐在・森林組合・役場の職員等で協議をし、国庫補助の対象になるもの、県費補助の対象になるものから路線を均等に14地区に配分できるよう査定します。そして、どうにも補助制度にのらないものは、村単事業でまかない、だいたい14の地域が均等に道路を開設する処置をとっています。
 従って役場の職員は、道路開設のために用地交渉で現場に出かけて苦労することは皆無だと申し上げることができます。
 これは一面今の社会常識から考えるとちょっと可笑しいと言われるかもしれませんが、厳しい状況の中でお互いが助け合い支え会って生きてきた村の中で、伝統的に築かれた連帯協調の村民性と、私どもの先輩が薦めてきた公民館活動の成果ではないかと思っています。
 私はよく本村を訪れる役所の皆様や大学の先生方を御案内する九郎山林道という林道があります。これは全国の峰越林道の第1号で開設した林道だと聞いています。その林道の丁度村の中央を走る稜線の展望が利くところに御案内し、諸塚村の状況を説明申し上げています。
 私はその度に、あの急峻な地形に何を考えて先輩たちが黙々と木を植えて育てたのか、と考えるといつも込み上げるものがありました。そして、必死になって村を良くし、せめて自分の子や孫の代には、俺達より幸せな生活を保証して上げたい、そういう願いで私どもの先輩たちは木を植えて育てたのではないか。この様な恩誼を忘れたならば、私はあの世に行ってご先祖様に顔を合わせることはできません。どういう状況になっても村を離れることは私はできないのです。
 こういう話を諸塚村の青年にすると、「村長、理屈は解るけど、哲学では飯は食えんよ、空気や水だけでは生きてゆけない」とよくお叱りを受けます。
 しかし、その折申し上げるのは、私が言っているのは電気が無かったり、車が通らない時代に戻って生活しなさいという事でなく、その時代背景の中で、あの厳しい条件の中で、真剣に誠実に先輩がどのような努力をして生きてきたのか、その事に対して尊敬の念も感謝の念も感動も抱かないような地域社会が出来るとすれば、それはもう日本の終わりだと申し上げたい。
 決して林業を嫌いな人に林業をやれとか、諸塚村の様な所に全て帰りなさいと申すつもりはありません。今、科学技術文明の中でこれほど豊かになり、人間の欲望が満たされる時代になって、大切なことを忘れたから、これだけの豊かな社会の中にむしろ問題の方が多くなってきたのではないかと思います。
6.農林複合経営の成果と栄えある「朝日森林文化賞」受賞
 昭和35年に今まで説明したように、時の先輩の皆様は諸塚村に一番現地に適した産業は何かと真剣に協議したところ、いわゆる用材林業、それから乾椎茸、わずかばかりのお茶と畜産の4つを産業の柱と位置づけ、この4つの複合経営によって豊かな山村を創造して行こうと取り組みを進めてまいりました。
 この事は村民の大変な努力により非常に成果を上げ、これらの事が全国でも諸塚村という名を関係者にも関心を持ってもらえるようになったのであります。
 昭和60年の「朝日森林文化賞受賞」の表彰状には、「貴方がたは公民館活動を通じて、林業知識の普及に努めると共に、林業を完備し用材・畜産・椎茸・茶の複合経営により、山村の自立を達成されました。その業績をたたえ本賞を贈ります」という内容が書いてありました。
 ちょうど昭和59年から60年にかけて一番の産業である乾椎茸が生産額10億円を超したことがあります。これに幼齢林分であるが、間伐材の代金が椎茸と一緒に入るようになったら、やっと諸塚村民の努力が報いられるという希望を抱いたものです。
 しかし、その後は御案内のとおりで椎茸も中国産がどんどん入るとともに全国至る所で栽培されるようになりました。木材もご案内のとおりで価値が低迷どころか逆に下がってしまいました。一体私どもは何のために今まで働いてきたのかという寂しさ禁じ得ないのが現状であります。
 ご多分に漏れず諸塚村も過疎化・高齢化が急激に進行しております。何が寂しいと言っても、人口が少ない所で人が減る位寂しいものはありません。しかも若い方々が段々居なくなるわけです。
7.今までの延長で村づくりが機能しなくなった山村
 この前新聞を見たら終戦を知らないで26年間、グアム島お穴蔵で生活して、お帰りになった横井庄一さんが亡くなられた記事が載っていましたが、「恥ずかしながら生きながらえて帰りました」という有名な第一声を話された方です。もう今の社会は色々な事が日替わりメニューのように出るので、忘れて良いことも大切な事も1ヶ月もすれば全部忘れてしなうような世の中です。横井庄一さんという方が居たのかと思うほどでしたが、たまたま新聞に載っており、横井さんは晩年、耐久生活評論家をなさっていたそうです。
 その晩年横井さんがしみじみ述懐したことは、教育、政治、宗教全てに不満だよ。私らがこんな世の中にしようと思って一生懸命やってきたのではなかったと嘆いていたそうですが、まさに今諸塚村の状況が私にはこの気持ちなのです。50年かけて食うや食わずで一生懸命道を付け、木を育て豊かな山村社会を夢見て努力したが、さて今になって見るとこんなはずじゃなかったという気持ちでいっぱいです。
 こちらの県はどうかわかりませんが、私どもの地方、ことに山村では後継者の配偶者対策は大変な問題です。私の村は公民館活動によって村づくりを進めている当時に、お陰様で全家庭に後継者が帰ってきました。これは非常に心強く有り難いことですが、今日では、かえって父母のことを心配したり、自分の村のことを心配したりする人に限って嫁がいないのです。この事は本当に表現しづらい寂しさと哀しみなのです。
 私の村は人口が少なく、小学校は4校、中学校は1校ですが、私の母校は一番小さい小学校で一番児童数が減ったときは、全校生徒でわずか4名、教職員が8名です。2人で1人の生徒を持っていただく位ですから、大都会から考えたら一言理屈も言いたくなるような実態だろうと思います。
 その4つの小学校の入学式、卒業式の折は年に1回ずつ公平に出席しなければなりません。これを間違えると落選してしまうので、敬意を表するため4校差別しないようお伺いしなければなりません。
 その卒業式に参ると、小さな規模の小学校ですから校長先生が卒業証書を手渡す前に、壇上に上って、一人一人に大人になったらどう言うことをやりたいのかと、夢を語らせると99%が諸塚村に帰ってくるというのです。
 私は聞いて涙が出ます。子供というのは本当によく見ていると思います。
 家が貧しくて住宅も本当に粗末なので、大きくなって大工になり家を建てて父母に住まわせるのだとか、椎茸栽培で大変だから帰ってきて父の手伝いをして林業をやるとか、年老いたお婆ちゃん達の介護をするため看護婦になるのだとか、内容が全部諸塚村に帰る話であります。
 ところがこれが中学校での進路指導になるとおかしくなり、子供も保護者の方もそうなのですが、人事ではなく私がやってきていることなので恥を忍んで申し上げますが、成績の上の方から何番目まではこの学校に行く、その次はこの付近だよと、将来の職業とは全く関係無しに高校進学を考える風潮が非常に強いのです。私どもの頃は家の手伝いをしたものですが、今は諸塚村のような田舎でも勉強、勉強でありますから何か仕事を当てると「今は勉強よ」と言われると、物わかりの良いご両親は「そうだ大変な受験の前だ勉強しなさい」とテレビを見て遊んでいても手伝わせない。そういう育て方になっています。
 山村に後継者が帰らない原因は、私どもに大半の責任があると反省しています。
 高校を卒業する頃になるとなお一層です。ある時村長室に父親が大変な勢いで来られ、「村長、俺の後継者を高校を卒業したら村に帰そうと思っていたら、進路指導の先生がお前位の能力であれば、諸塚村の山中で生活しなくても、いくらでも良いところがあるから帰るなと言う。けしからん事を言うので何とかしてください」という話もありました。
 しかし、先生が父親に言ったことも間違いではなく、又父親の気持ちも間違っていないと思いますが、本人の考えを一番尊重すべきだと言った記憶があります。
 私には一つのコンプレックスがあるかも知れませんが、人生のこだわりとして、何故人は山村や僻地に生まれたが故に人並みの教育の機会が与えられないのか、又山村で生活するが故に人並みの幸せをなぜ実感出来ないのか、そして学問がないという事が人間の一生でどんなに淋しい事なのか、65年間身を持っていやという程体験しております。
8.自然との共生で新しい山村社会の創造を目指して
 故郷も森林も大事ですが、やはり勉強はそれにも増して大切であると思います。ただ、その勉強の仕方が願わくば自然や山村と人間が共生する生き方を、心の中に残る様な教育をして頂きたいと思う気持ちがしてならないのです。
 私のささやかな経験ですが、若い頃たった一人で私を育ててくれたお袋に対して有り難いと思う気持ちがわいた事がありませんでした。社会に出ていろいろ教わり、多少の責任を持たせていただく中で、人の有難みが分かりました。そして、お袋の女手一人でどんな苦労をして、私だけを楽しみにして生きてきたのかを、ずいぶん歳をとるまでは理解できませんでした。
 しかし、人間というのは必ず一生の内にそういう事に思い当たる事があると思います。従って私は近所の老人クラブの会議等に出た折に、今一番大切なことは、「後継者が帰らないからもう諦めた」「木材の価格が安いから馬鹿馬鹿しくてやれない」というような気持ちをなくそうではないか。人が一生魂を込めてやって来たことを亡くなる前につまらんことをやって来たと思うような人生は寂しい人生ではないですか。もう私どもは街に出て行っての生活はできません。そういう能力もありません。ただ今まで山村に生きて、故郷を大切に思いながら、豊かな森林を守り育てることに生涯を懸けてきたわけですから、亡くなるまで諦めず、それを子供たちにやって見せていれば、子供がどこかで生活しようが必ず一生のうちに父母や祖父母の苦労が、人生にとって必要だったのだと思い起こす事だろうと思うのです。
 そういうものがあれば、新しい時代に新しい感覚で新しい手法で山村や森林を守って行く手立てが生まれてくると思うのです。
 それを私どもが諦めたら、もう次の世代に自然の中で共生努力した意味など理解されないのではないか、だから後まで頑張ろうといっているのです。
9.一つの試み
国土保全森林作業隊(現「財団法人 ウッドピア諸塚」)のこと-
(1) 「ふるさと創生」交付金を元に「国土保全森林作業隊」のスタート
 私どもが一つの試みとしてスタートしたのが、諸塚村の「国土保全森林作業隊」という組織であります。
 ただ働きさえすれば良いと言った環境の中で若者に「村に残りなさい」と言っても無理なのです。
 村長をしている4年間に毎回いやな思いをしたのは、公務員の給与が決して悪いというのではないので誤解しないでほしいのですが、人事院勧告あれば黙っていても役場の職員の給与が上がる訳です。ところが農林業は、うちのような地形で村が力を入れてかろうじて幾分かの平地を作り、椎茸のほだ木を集約して灌水施設を作り、コストダウンを図って所得を上げる努力をしても、1年間に公務員の方の給料アップとの格差を開く一方なのです。公務員の給料アップの案件を議会に提案しますと、先輩や友達が嫌なことを言うのです。「村長、公務員の給料を上げていかんとは言わないが、役場の職員の給与と農林家の所得の格差はどう考えているのか、その説明をせよ」と言われるのです。それを説明できる理由がないのです。本議会でこんな事を言ったら不信任になるので、議会が終わってから、「何であんな嫌なことを質問するのか」と議員に申し上げたことがあります。
 ですから進んだ企業に解雇されている方とか、役所にお勧めの方には、女性の方でもご案内のとおり子供が生まれる産前から産後、育児休暇まで制度化されている。諸塚村の農林家の嫁さんがそんな事をやっていたら生活できないのです。できないから山村に嫁が来ないのです。

(2)現地の第一線で働いている人達の身分が安定する施策がなによりも大切
 私は今森林・林業の問題を真剣に考えるならば、道路も学校も公民館も立派な役場も必要ですけれども、現地の第一線で働いている人達の身分が安定する施策が生まれない限り空回りだと考えてます。
 従って平成2年に国土保全森林作業隊をスタートさせました。これは竹下内閣時代の「ふるさと創生」交付金の1億円を元に出発したものです。
 それは私自身がせめて休みの日には役場の職員と一緒に休めて、多少水準が低くても良いから決まった日に、決まった給料が貰えて社会保証が充実しているような身分保証ができたら、沢山でなくても少しは若者が残るのではないかとの願いを込めてスタートしました。これは役場の職員とほぼ同じ所得を保証し社会保障を確立する組織を作ったものです。ただ仕事の内容は現場の仕事であり厳しいのです。
 最初の年、5人でスタートしまして、今は21人に現場作業員が増えています。公務員並みの保証をして諸塚村の後継者の居ない林家の山林を守るための支援活動と、村を守っていただくことでお願いしていますが、村民からも林家からも信頼を得て成功しています。

(3)作業隊運営財源の問題
 ただこれを運営する財源問題で、今1年間に作業隊員1人に対して100万円以上足りないのです。この金をどこから支援するかが非常に大きな課題であります。
 貧乏村なのですが、作業隊の趣旨を村民にご理解をしていただき、私が村長を辞める時には、5億7,000万円の基金を積み立てしております。任意で運営していた作業隊を平成7年に「財団法人 ウッドピア諸塚」に名前を改め、法人化しており、そこに5億円の基金を寄付し、なおかつ後任の村長にも10億円になるまで、年間1億円近い積み立ての努力を頂いています。その他いろいろな方の支援を得て、村有林100ヘクタールを財団法人に寄付をし、これで自立して欲しいということで進めています。
 なぜ、1人に対し100万円も足りない状況が生まれるかと言うと、林業をやっている方はお解りでしょうが、間伐材等を出しても大した所得になりません。
 ですから「ウッドピア諸塚」には、国の助成を得て機械化を進めたり、技術を上げたりして、できるだけ安いコストで後継者のいない林家や労働不足の林家を支援し、それで幾らかの林家の壊に入るのです。この格差分が1人100万円足りないのです。

(4)ほしい国の支援
 ですから私は、国に対し国民からの理解を頂き10億円程度基金を積むためのご支援を頂けないでしょうかと、前からお願いし続けてきたが、簡単にいきません。
 私の村に国保病院がありますが、私が村長をやっている時でも大体1年間に6,700万円一般会計から繰り入れをしなければ病院は赤字です。
 ですから私はよく村民に健康と生命を守るために6,700万円を1年間に入れることもやむを得ないが、「それ以上大切なことは後継者を育成するために、同じ金額を入れても良いのではないか」と思っています。ところが残念ながら病院側の赤字については、国の方から支援制度があるけれども、この作業隊の育成支援については余り明確な支援体制がない訳です。
 松形知事がこの事を十分理解して提唱している、「国土保全奨励制度」の問題も、この様な事が国の施策として実現出来ないものかと、努力しているところです。

10.おわりに
(1)
豊かな山林を守り育てることこそ山村に定住している私どもの役割だ
 私どもはどんな山村に生まれて、どんな教育のない人間でも、生きる権利があると同時にその地域、地域で社会人としての果たす役割があると思うのです。
 残された数少ない村民と若者達ではありますが、諸塚村という大変な山奥で、そこに住んでいる人間の生涯をかける目標として豊かな山林を守り育てることこそ、山村に定住している私どもの主体的な役割でなければならないと私は信じています。
 そういう願いを込めながら、今後も新しい山村の創造に向けて頑張っていきたいと考えています。

(2)ヨーロッパの歴史の教訓
 最後に一言だけ御紹介します。もう亡くなられた九州大学の名誉教授佐藤敬二先生、大分県日田出身の方で、この方が戦後10年くらい経った頃、西ドイツの林業事情を視察に行った折のことを「森林随想」という雑誌に書いておられます。
 「フランクフルトの空港脇の森を、なぜ西ドイツの皆さんは、あらゆる開発からこの平地の森をかたくなに守っているのですが、との私の素朴な質問に答えたある森林家の言葉が今だに忘れられない。我々は文化興亡の歴史を教訓にしているのです。古代ギリシャに始まりローマ、ベネチア、スペインと引き継がれ、1,500年の長きに渡り我が世の春を謳歌した地中海文化も、人々が背後の森を滅ぼし、大地から足を洗い、質実な生活に別れを告げ、黄金万能、安逸、華美な社会生活に溺れるに及んで活力を失い落日の時を迎えるに至りました。我々はその歴史的事実に鑑み、堅実な時代の国民を育成する場として、平地にも高地同様の森林を維持する様にしているのであります。この是非の判定は300〜500年後の歴史が下すに違いありません」と言っております。
 もし歴史が繰り返すという言葉が当たるなら、このドイツの森林家の言葉と今日のわば国経済社会の状況をだぶらせて考えて頂く必要がある時代を迎えているのではないかと、山村で、自然の中で生活をしたささやかな体験から、私はそういう風に思わざるを得ないような心境であります。

 冒頭申し上げたとおり、言葉の端々に失礼な点や、お気持ちに触る点があったかも知れませんがご容赦頂き、この機会に改めて自然との共生や環境問題を考えていく中で、山村の昔を思い出して頂くことに、何かお役に立つ事があれば、最高の喜びでございます。
 ご静聴ありがとうございました。

 


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