諸塚に関するライブラリー
高千穂採薬記

「高千穂採薬記」   著者 賀来飛霞

 豊後の本草学者・賀来飛霞(今の大分県安心院町に実家)が、延岡藩の依頼で藩内の薬草類を調査し著した記録です。

★成立の過程★
 江戸末期の延岡藩は、極度に財政に逼迫していて、巷では藩主の内藤備後守の語呂合わせで「金がないとう、貧乏の守」と言われるほどでした。そんな厳しいなかで藩は、藩内を調査し、めぼしい薬草を特産品として全国に販売することで、財政立て直しの一助にしようと考え、藩士・水城大可を通じて、彼の親友・豊後の賀来飛霞にその調査を依頼しました。当時賀来飛霞は、若くして本草学(今日の博物学)を学び、医学や書画にも通じていて、後に幕末の三大本草家といわれた人物でした。

 そして、1845年に賀来飛霞は、延岡にやってくるのですが、滞在69日間で、藩内34か所を踏査し、千種類以上の薬草等を採取しました。この本に載っているいる草木類は、168科842種を数え、その中にはその頃正式に名前のなかった新種も発見されています。オオカミやツキノワグマなどの動物も含め160種を調査、描写しています。
 また、この記録は、ただの調査記録というだけでなく、山深い農家の食事事情、古代から伝わる民話などを詳しく聴きとり、記録していて、江戸末期の高千穂地域の風俗を知る第一級の資料となっています。スケッチは撮影したように精度が高く美しいものです。賀来飛霞の数多い著作の中でも、出色のものといえます。

★諸塚の記述★
 一番最初に、南高千穂郷として諸塚村内も精査しています。4日間ほど滞在していますが、ルートは、北郷村宇納間から吉野宮を越えて川の口に宿泊、翌日は七ツ山を経て内の口に宿泊、次の日諸塚山に入って、再度内の口に泊まっています。その後立岩を出て川の口から家代に入り宿泊し、翌日には耳川を渡って西郷村山三箇に向かっています。

 農耕文化とちがって、山の恵みと共に暮らす独特の山岳文化を坦々と営む諸塚の人々の様子が良く描かれたその記述を見てみましょう。
@ まず吉野宮神社に立ち寄っています。吉野宮神社の謂れや享保19年(1743)に建てた座頭さんの供養塔のスケッチが著されています。ちょうど吉野宮神社祭りの前日で、険しい峠道を越えた深い林の中に、物売り小屋が何件も立ち、多くの人がお参りに来る様を記しています。北郷村の宇納間地蔵さん、延岡のお大師さんと並んで、宮崎県北部の3大祭りといわれ、眼病に効力があると参拝者が多かった当時の様子がわかります。
A 諸塚村内はほとんど田畑がなく、どの山にも焼畑があることやその様子を絵に描いています。また焼畑の後に生えた多くの山茶の木や山奥深くにある広大な山茶の畑のことも書いています。村土のほとんどが山林の諸塚では、焼畑が生産面で主要な位置を占めていて、焼畑のソバ、ヒエ、イモが重要な食料でした。明治中期まで焼畑農耕が生活を左右する重要な生産手段だったのです。
B 諸塚山にも登っていますが、諸塚山神社などに、大鏡、小鏡の所蔵が多くあったことが記されています。諸塚山のことを、土地の人は「諸塚大白大明神」と呼んでいたそうです。
C 食物では、高千穂ノリ(川ノリ=石灰岩質の河川にしか出来ない)やシイタケ、エノハ(ヤマメ)などが書かれています。特にシイタケは、延岡を出てから朝昼晩にいつも出されて、しかも諸塚では大きなものを食べたということです。しかし、これらは
賀来飛霞たちの公務の役人のもてなしの食事で、シイタケや川ノリのような貴重な換金作物は、地元の口には入らず、通常トウキビ、アワ、ヒエを主食とした雑穀を食べていたと思われます。
D 民家の屋根の多くにカツオ木が乗せてあって、「神代の遺風」と記述しています。当時から天孫降臨の地・高千穂郷とされていたと思われます。

 

★「地元再発見ツアー」のバイブル★
 「高千穂採薬記」は、その成立過程や記録からして地域学のバイブルとも言えます。諸塚村は、「(クヌギ)の森プロジェクト」を組んで、森を知ること、村を知ること、地域を知るために地域学=「地元学」の手法を用いた地域資源の探索ツアー「地元再発見ツアー」を全村的に展開しています。地域に入って庶民の家に泊まりこみながら、忠実で詳細な記録を残すフィールドワークを実践した先哲の著作を大いに生かしていくことが大事なのではないでしょうか。

参考文献:「高千穂採薬記」1997年((有)鉱脈社 賀来飛霞・澤武人著 滝一郎解説)