耳川の水利権と百万円道路

 諸塚村の南端を含め宮崎県北部東臼杵郡を縦断して流れる耳川は、昔から急峻で水量の豊富な河川として知られていました。鉱山経営のほか山林経営も進めていた大財閥・住友吉左衛門は、大正8年(1919年)耳川上流の椎葉村に1万haの膨大な分収造林事業を始めました。耳川流域の諸塚村・椎葉村を含む広大な地域は、当時道路もない陸の孤島といってよく、大変な事業だったのですが、宮崎県が産業発展策として住友財閥に懇請したことや、財閥に宮崎県出身の責任者がいたこともそれが実現した理由だそうです。

 大正末期というのは、急速な重工業化の流れの中、電源供給のための水力発電事業が急速に拡大した時期で、大手企業は、有力な電力供給源として耳川の水利権を獲得しようと競っていました。しかし、造林事業の経緯もあって水利権は、大正9年(1920年)住友財閥1社に独占して設定されることになったのです(耳川流域内に4箇所の発電施設を計画)。

 大正時期1921年に電力事業の統制のため、住友財閥を含め4社で九州送電という電力会社(現在の九州電力鰍フ前身)が設立され、本格的な耳川流域の電力開発の準備がスタートしました。ところが、当時諸塚村から椎葉村には車の通れる道路がなく、もっぱら美々津までの「高瀬舟」や延岡までの峠越えを馬で運ぶ「駄賃付け」が主流でした。宮崎県でも道路建設が何度も計画されたのですが、工事も困難で、充分な資金もなく断念されていたのです。

 そんな状況の中、1925年住友財閥からダムの建設にあたり流木(木材の般出用)と筏(水運用)の水路建設計画を止め、代替として地上道路を建設したいという申し出がありました。宮崎県は、これを契機に悲願の道路整備を実現しようと、ダムと発電所の建設を許可する代わりに、隣村の西郷村田代から諸塚村内を横断して椎葉村に至るまで、住友財閥で幅員4mの道路を整備するという契約を結んだのです。

 その後1928年から道路建設は県の事業となり、必要な経費総額100万円を住友財閥が寄付することになりました。これが地元で俗にいう「百万円道路」の謂れで、現在国道327号線がそれにあたります。その後、耳川流域には7つのダムと8つの発電所という一河川では稀に見る数の電力施設が、次々に建設されることになります。


 諸塚の発電所とダム