1465 蜷川親元「親元日記」にシイタケの食用の記録がある。 1484 吉野宮で旅の盲僧が賊に襲われ殺害される。毎年、命日の3月28日が吉野宮神社の座頭さん祭りとなっている。
  1513 肥後阿蘇氏の重臣北里伯耆守為義主従27人、阿蘇家の内紛より追われ、立岩・桂集落で玉砕する。その墓は現在でも桂集落で大切に祀られている。
  1577 佐土原城主伊東義祐主従百十余名、「豊後落ち」で本村を通る。
  1580 家代村上村に金鶏寺を創建。旦那甲斐宗摂という。
  1593 甲斐兵庫守秋正等7名、家代村九左右衛門峠で討たれ自刃する。墓は金鶏寺に祀られる。
  慶長年間 川の口に信行寺を開基する。現在は廃寺となっている。
  慶長年間 七ツ山本村に浄土真宗平等山浄覚寺を創設。
  1614〜1692 有馬藩に高千穂(諸塚を含む)地域から栽培されたシイタケが上納された。シイタケ栽培の最も古い記録である。
  1664 ナタ目法による椎茸栽培始まる。いわゆるシイタケ栽培の始まりであるが、その地は豊後説(農民源兵衛)と伊豆説(菌師駒右衛門)がある。
  1673〜1703 シイタケ栽培が豊後・岡藩の藩営事業に発展。
  1697 農学者・宮崎安貞が「農業全書・第五巻」でシイタケの栽培法を著す。
  1713 寺島良安の「和漢三才図会」という本では、日向の国のシイタケが最高と著述されている。
  1749 人吉藩(諸塚を含む)では栽培シイタケの販売利益で年貢を納めていた。
  1784 ツンベルク(スウェーデン)の「日本植物史」(フロラ・ジャポニカ)にシイタケが紹介される。
  1796 農学者・佐藤成裕が「温故斎五端編」を著す。シイタケ栽培法の最古の書である。
  1845 豊後の医師賀来飛霞、臼杵郡内を踏破中、諸塚内も訪問。「高千穂採薬記五巻」を著す。
  1864 塚原・弁指岩次郎一行が伊勢を参営し、日記を記す。
1868 1868 富高県を配置、日田県管轄となる当時は家代村と七ツ山村に分かれていた。(73年に宮崎県となる)
  1874 家代八幡の神楽殿で児童教育始まる。(諸塚小学校の前身)
  1876 七ツ山浄覚寺で学校が発足する。(七ツ山小学校の前身)
  1877 西南の役で、西郷隆盛一隊が村内を敗走。(松の平に一泊した)
  1882 家代・七ツ山に郵便局が開局される。
  1884 臼杵郡を東西に分け、西臼杵郡に編入される。(1949年に東臼杵郡に編入)
  1887 梅原寛重「勧農叢書椎茸製造独案内」を出版した。 1889 家代村と七ツ山村が合併して諸塚村が誕生。大字七ツ山本村に役場を開庁する。
  1898 新潟県・田中長嶺が人工接種法により、種菌事業を計画する。
  1899 このころ自然発生を基礎としたナタメ式栽培法が全国に広がる。
  1899 荒谷小学校が開校される。
  1902 高瀬舟が美々津から吐の川まで運行される。
  1907 大分県・三村鐘三郎が「人工播種椎茸栽培法」を出版し、その中でほだ汁法を考案している。
  1907 役場を大字家代原内に移転する。
  1908 立岩小学校が開校される。
  1909 広島県・乗兼素治が「胞子まきつけ法」を発表。 1910 消防組を初めて設立する。
1914 1914 長野県・今牧棟吉が「胞子注射法」を考案。朝鮮・李元暁が「埋ほだ法」を試験的に行う。
  1922 このころ群馬県・山田保一が「埋ほだ法」を始める。 1922 諸塚村商工会が設立される。(初代会長藤井長治郎氏)
1928 1928 日向市からの幹線道路「百万円道路」(現国道327号線)の建設がはじまる。(〜昭和7年開通する)
  1935 宮崎県・北島君三が純粋培養鋸屑種菌を発明。 1936 諸塚村内の郵便局で電信電話の事業を開始する。
  1938 九州電力塚原発電所が竣工運転を開始する。
  1941 菌学者・吉井常人が、菌床栽培を考案する。 1941 諸塚山神社に神武天皇御遊幸記念碑が竣工する。
  諸塚森林組合が設立される。
  1942 村役場を新塚原(現在地諸塚町)に移転する。
  1943 森喜作が「純粋培養種菌駒法」のクサビ型種駒を考案し、特許を取得。
  1943 本村で初めてシイタケの種駒栽培が始まる。
  1946 シイタケ栽培が広く全国に普及し、大規模生産も可能になる。
  1946 第1回諸塚村成人祭(式)を開く。(男子満20歳・女子満18歳)
  1947 諸塚中学校が開校する。
  第1回文化祭が開催される。
  1948 棒型種駒が考案される。 諸塚村自治公民館運営及び組織が発足する。(いわゆる諸塚方式自治公民館組織の整備)
  1948 種菌法の改良と普及 優良品種の選抜育成
  1949 村広報誌「もろつか」発行される。
  1955 生シイタケの生産が増大する。終年栽培が普及しはじめる
  1955 村立諸塚病院が開業する。
  1957 第1回諸塚村椎茸宣伝隊、全国椎茸品評会に上京。諸塚村が全国乾椎茸品評会で初の農林大臣賞、個人表彰を受ける。
  1958 椎茸音頭がレコード化される。
  1960 人工ほだ場が普及し、作業の省力化が図られる。
  1960 宮崎交通のバス立岩線、飯干線が開通する。
  1961 九州電力諸塚発電所が完成する。諸塚村寿会が誕生する。
  1964 諸塚村生産者が全国乾椎茸品評会の個人の部で農林大臣賞を受ける。
  1966 藤井長治郎氏が名誉村民に推載される。
  1967 県道五ヶ瀬諸塚線(現国道503号線)が開通する。
  1968 諸塚中学校と七ツ山中学校が統合され諸塚中学校が発足する。
  1971 過疎地域振興法の指定を受ける。
  矢村スギと小原井トチノキが宮崎県の巨樹百選に指定される。
  1973 諸塚村章と村民憲章が制定される。
  1977 椎茸害菌(黒腐病)が九州(大分中心)で多発する。
  1977 宮崎県「新観光地百選」で諸塚村スカイラインが第4位に入選する。
  第1回宮崎県育林祭が家代池の窪公園で開催される。
  1982 第1回諸塚村育林祭が開催される。
  1983 シイタケ価格が暴騰し、安価な中国産シイタケが大量に入荷する。
  1986 日本一早い山開き「第1回諸塚山山開き」が開催される。全国植樹祭で諸塚村森林組合が農林大臣賞を受賞する。
  1987 諸塚村生産者が、全国乾椎茸品評会個人の部で農林水産大臣賞、林野庁長官賞を受賞する。
  1987 役場新庁舎(鉄筋コンクリート3階建て)が完成する。
  1988 諸塚村生産者が、全国乾椎茸品評会で本村が内閣総理大臣賞、森喜作賞を受賞する。
  1988 文化交流拠点として「しいたけの館」が完成する。
  諸塚自治公民館連絡評議会が、農林水産祭むらづくり部門で天皇杯を受賞する。
1989 1989 諸塚のイメージソング”山よ!”ができる。フォレストピア六峰街道が完成する。フィリピン植樹に参加する。
  1990 諸塚村国土保全森林作業隊((財)ウッドピア諸塚の前身)が発足する。
  本村から10名、タイ王国の植林フォーラムに参加する。
  諸塚村で国土保全森林サミット全国大会を開催し、林業立村をアピールする。
  1991 「諸塚神楽」が県の無形民族文化財に指定される。
  1992 諸塚ディサービスセンターが完成する。
  1993 小規模特別養護老人ホーム”せせらぎの里”がオープン。
  1994 家代池の窪公園を池の窪グリーンパークとし、ログハウスなどのキャンプ場の整備を始める。
  特産品販売所「もろっこはうす」がオープンする。「森と川と海のフォーラム」が開催される。
  第1回宮崎県美術協会展「もろつか展」が開催。
  1996 椎茸ドレッシング、本県初の全国商工会連合会長賞を受賞する。
  1997 森の国しいたけ団地が整備される。 1997 やかた婦人グループが宮崎日日新聞産業賞を受賞する。熊本市内に諸塚村産直住宅第1号が完成する。
  シイタケの周年栽培が可能になる。 1998 諸塚村初の国際交流員が赴任する。
  1999 家長地区しいたけ生産団地が整備される。 1999 森の古民家「やましぎの杜」を整備し、山村生活を体験する農林業体験交流イベントを始める。
  2000 干シイタケと生シイタケの輸入量が共に前年比より 2000 飯干地区に諸塚山渓流の里(ログハウス3棟)を整備する。
  倍増する。 特産品販売所「ふれあいの森」が諸塚町に、宮崎市内にふるさと物産館「海幸山幸」がオープンする。
  七ツ山本村に森の古民家「藤屋」を整備し、大豆応緑倶楽部を始める。
  2001 立岩地区しいたけ生産団地が整備される。 2001 エコミュージアムもろつか「しいたけの館21」がオープンする。
  塚原・平田組に森の古民家「へいだの里」がオープンする。