道づくりと村づくり
<諸塚の歴史と道>
 諸塚の歴史は、その険しい地形に規定されているといっても過言ではありません。現在諸塚の中心集落や国県道路網は、耳川とその支流沿いに整備されていますが、それは比較的新しいもので、かつては展望が利き、安全で比較的なだらかな稜線に沿った尾根筋の道が主要交通道路でした。延岡方面、熊本馬見原方面そして大分竹田方面の大きく3つの尾根道があって、駄賃付けといわれる馬や人の背に負ってシイタケや山茶、木炭、コウゾ皮などの物資を運び出して、塩や酒、干し魚などを運んで帰っていました。

 しかし、これらは、道とはいえ、山を越え谷を渡る困難なもので、外部との交流はもちろん、村内の通勤、通学、集落間の交流なども思うに任せない状態でした。当時はまさしく「陸の孤島」そのものだったのです。宮崎県も椎葉村含めて、耳川奥地の開発を検討していたのですが、技術的にも財政的にも困難を極めて、計画は頓挫していました。産業、生活のすべてを規定する道路網の整備は、沿線住民の長年の悲願だったのです。

 昭和初期に耳川流域に水利権を持っていた住友財閥が、ダム建設の事業認可のため、耳川沿いの道路整備費用に必要な経費総額100万円を寄付することになりました。これが地元で俗にいう「百万円道路」の謂れで、現在国道327号線がそれにあたります。

<日本一の道路網へ>
 もともと諸塚村は、村土の僅か1%しか平地が少なく、山間の小さな土地に集落が点在しています。そのため、山が近く山林を管理するには便利なのですが、集落同士の行き来や物資の輸送にはとても大きなハンディキャップがありました。

 国道327号線の整備の後、村内の道路網の整備が始まり、「村づくりの基本は道づくり」として、全村挙げた取り組みを勧めました。特に集落間の連絡道路は、その集落の出夫で道路開設をするなど、血のにじむような努力を続けました。その結果、現在では村の面積あたりの車道密度は、60m/fを超えて、日本一となっており、日常生活はもとより、産業面も、そして観光面でも利便性のある、高密度道路網が出来上がっています。